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国立大学法人 東京海洋大学

東京海洋大学について明治丸海事ミュージアム

国の重要文化財「明治丸」と百周年記念資料館, 明治丸記念館及び現存する日本最古の2つの天文台(第一, 第二観測台(登録有形文化財))等から構成され, 「海洋立国日本」の歴史と文化を学ぶ場としての役割を担うとともに,越中島キャンパスに接する水辺やキャンパス内の緑が織り成す豊かな自然環境と融合して, 地域に開かれた多様な文化交流の場の創出を目指しています。

明治丸?百周年資料館と明治丸記念館

観覧のご案内

【12.11更新】
第7回明治丸海事ミュージアムフォト?絵画コンテストの選考結果を発表いたします

詳しくはこちらをクリックしてご確認ください。

【11.21更新】
明治丸海事ミュージアム(越中島キャンパス)の12月の公開予定日
12月の開館予定日と時間はこちらをクリックしてご確認ください。

【10.21更新】
明治丸海事ミュージアム(越中島キャンパス)の11月の公開予定日
11月の開館予定日と時間はこちらをクリックしてご確認ください。

【3.25更新】
日本郵船株式会社保有、日本初のLNG燃料タグボート「魁」のエンジンを寄贈いただきました

詳しくはこちらをクリックしてご確認ください。


なお、荒天(事前の予報を含む。)の場合や、その他諸事情により、急遽予告なく閉館することがありますのでご了承ください。
予約制は取っておりませんが、10人以上の場合は、事前に電話かメールでご連絡ください。
現在、明治丸船内の見学も可能としております。

WEB上でも一部公開しています。

         

【アクセス】

越中島駅から大学までの経路

門前仲町駅から大学までの経路

越中島駅方面からの迂回

月島駅から大学までの経路

         

【見学?予約に関する問合せ先】
東京海洋大学明治丸海事ミュージアム
meijimaru-jimu(at)o.kaiyodai.ac.jp

重要文化財明治丸

明治丸は、明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し、明治7年に竣工した鉄船(現在の船はすべて鋼船)で、翌8年横浜に回航されました。

一等飛脚船同様の出来と言われたこの船は、特別室やサロンを備えた豪華な仕様の新鋭船で、単に燈台業務ばかりでなく、ロイヤルシップの役目も兼ねていました。明治天皇はじめ多くの高官が乗船し、わが国近代の重要な場面で活躍しました。

なかでも明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、日本政府の調査団を乗せ、英国船より早く小笠原に到達しました。このことによって、小笠原諸島はわが国の領土となったのです。その後の沖ノ鳥島、南鳥島の領有を含め、日本は領海と合わせて世界第6位となる447万k㎡の排他的経済水域を確保することとなりました。その約3分の1に当たる約150万k㎡が東京都小笠原村に属しています。

また、明治9年、明治天皇が東北?北海道巡幸の際、青森から乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着されました。この日を記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され、平成8年に国民の祝日「海の日」となりました。

およそ20年間、燈台巡廻船として活躍した明治丸は、明治29年に商船学校(本学の前身)に譲渡されました。それからは係留練習船として昭和20年までの約50年間に、5000余人の海の若人を育てました。大正12年の関東大震災や、昭和20年の東京大空襲では、被災した多くの住民を収容し、災害救援にも貢献しています。

昭和53年には、わが国に現存する唯一隻の鉄船であり、鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として、国の重要文化財に指定されました。船としての重要文化財指定は明治丸が初めてです。

その後、老朽化が進んだため、再び平成25年12月より、本学と文部科学省により大規模修復工事が行われました。平成27年3月に竣工し、その美しい姿がよみがえりました。

百周年記念資料館と明治丸記念館


百周年記念資料館


明治丸記念館

東京海洋大学百周年記念資料館(昭和53年開館)は、東京海洋大学の前身の一つである東京商船大学が明治8年11月1日に、隅田川の永代橋下流に係留した成妙丸を校船と定めて開学してから、昭和50年で100周年となったことを記念し、その中心事業として建築されたものです。 この資料館は、一般によく見られる海事資料館とは異なり、本学100年の歴史を軸とした商船教育史と、その周辺の海事史を物語る資料を収集展示しております。
平成28年3月に竣工した明治丸記念館は、館内には展示室とセミナー室をそなえ、明治丸の多種多様な活動を発信しています。展示品の代表的なものとしては、明治丸の建造指示書、重要文化財指定書などのほか、明治丸内部で使用されていた銀製の食器類などがあります。セミナー室には視聴覚設備を完備し、海事情報啓蒙活動、小中学生対象の体験教室などの場として多目的に使用されています。

百周年記念資料館?明治丸記念館 過去の展示

第一?第二観測台

1903(明治36)年に建設された貴重な明治期の天文台建築であり、第一観測台は現存する日本最古のドーム屋根形状の天体観測室である(観象台、天文台、観測所、また第一観測台は赤道儀室、第二観測台は経緯儀室、子午儀室とも呼ばれた)

第一観測台

煉瓦造2階建てで1階は八角、2階は円形の平面をもち2階外壁を漆喰塗りとし、ドーム屋根をかけています。また、昭和16(1941)年頃までは2階漆喰塗り部分の外側に鉄柵がありました。

2階の円形平面の内部に口径4インチ(商船学校写真帳、大正6(1917)年、大正10(1921)年による)の赤道儀式天体望遠鏡が備えられていました。屋根の円形ドームは360度の開放機能を持っていて、手動で回転可能でした。現在、望遠鏡の鏡筒部は消失、赤道儀も完品ではありません。2階の鉄柵も消失しています。

第二観測台

煉瓦造平屋建てで、平面は八角形、屋根は八角錐鉄板葺きです。内部は子午儀を備え、天体の子午線通過時刻を精密に測定して、精確な経度の測定、あるいは時刻の決定ができました。 第二観測台の外から見て入口左側の窓とその対面の窓が一段高い位置に開けられていて、この窓を通して子午儀を用いた観測が行われていたと推定されます。現在、子午儀は消失しています。

  • 注1:赤道儀:天体望遠鏡の架台の形式の一。ある地点の地軸の方向(極軸)と、これに直角の方向(赤緯軸)の二つの回転軸をもち、時計仕掛けで回転させると天体を日周運動に合わせて追跡できる。デジタル大辞泉 (小学館)より
  • 注2:子午儀:天体の子午線通過の時刻を観察する器械。東西に水平に置いた軸に直角に取り付け、子午面内を動くようにした天文用望遠鏡
  • 注3:子午線:(「子」は北、「午」は南の意) ある地点の天頂と天の北極と南極とを通過する天球上の大円。球面天文学上の座標の基準の一つ
  • 注2~3は広辞苑 第6版(岩波, 2008)より

また、第一?第二観測台は明治後期の赤レンガ建築としても貴重な建物です。なお、第二観測台の六角形の建物のコーナー部は特殊形状の煉瓦、それ以外はイギリス積みで積まれています。

参考文献

  • 城山美香 (2011) 東京海洋大学越中島キャンパスの西洋建築 文化庁月報 515号
  • 無名氏 (2019) 東京商船大学旧天体観測所 (第一観測台?第二観測台) 
  • 日本の教育文化遺産を訪ねる [144] [国登録有形文化財 (建造物)] 
  • 教育旅行 2019年12月号:2-3

観測台 歴史

事項文献
1902年(明治35年) 5月10日霊岸島から越中島への校舎移転式と卒業式が合同開催され、平山校長の訓辞において、観象台の設置が議会で承認された旨の報告がなされた。
  • 平山藤次郎 (1902) 卒業證書授與式 商船学校校友会雑誌 54号:1-5
1902年(明治35年) 観測台建築の設計者は三橋(ミツハシ)四郎と推定される。東京商船学校は明治18(1885)年から逓信省所管となる。三橋四郎も明治31~36年の間、逓信技師であった。
  • 堀勇良 (1980) 東京商船大学第一、第二観測所 (旧商船学校天文観測台) 明治村通信 11(4):1113-1114
  • 三橋四郎 (1904) 和洋改良大建築學 上巻 大倉書店:37, 第18図 「東京越中島商船学校敷地ハ地質湿気多キ泥土ニシテ軟弱ナルヲ以テ可成震動セザル煉瓦造ノ観測臺ヲ築造スルニ角材ヲ組合セコンクリートヲ打チ充分ノ根積ヲ為シタル」とあり。
1902年(明治35年)
5月22日―12月17日
商船学校観測台建設に付観象に関する部分の設計を中央気象台技師和田雄治に嘱託した。
  • 商船学校校友会雑誌 53号(1902)雑報:1
  • 商船学校校友会雑誌 60号(1903):36
1903年(明治36年)
3月

天体測量用として1号観測台(八角形煉瓦二階造建坪8坪6合)、2号観測台(八角形煉瓦平家建坪8坪6合)が竣工した。

※百年史の年表では、明治36年6月に1号観測台、2号観測台、気象観測所が建設されたとあるが、「商船学校一覧 明治45年3月p.15」によれば、1号観測台、2号観測台は3月、気象観測所は6月に竣工したとある。

  • 商船学校一覧 明治45年3月:15
  • 商船学校校友会雑誌 208号(1916):94
1903年(明治36年)
7月23日
商船学校観測台機械組立及据付方を中央気象台技師和田雄治に嘱託した。1号観測台2階の円形平面の内部に4インチ天体望遠鏡(商船学校写真帳大正6年、大正10年による)と赤道儀が備えられた。2号観測台の内部に子午儀が備えられた。
  • 商船学校校友会雑誌 67号(1903):70
1923年(大正12年)
9月1日
関東大震災の時、明治丸と第1?第2観測台は奇跡的に消失を免れた。なお、明治丸助教横山照之助は万難を排して校舎から御真影(天皇陛下の御写真)を奉載した。震災後、御真影は第1観測台に安置された。
  • 本田生 母校の残骸よさらば 海事研究 290号(1924):156-161
1923年(大正12年)
9月2日
午前3時45分第1観測台に奉置せる御真影を取出して明治丸に奉移す。
  • 商船学校校友会誌 444号(1937):89
1929年(昭和4年)頃
~1931年(昭和6年)頃

第一観測台は御真影假奉安所として使用された。

※関東大震災により、校舎が焼失した。大正13年~昭和7年、バラック校舎が使用された。第一観測台が御真影假奉安所となったのもその為と思われる。

  • 東京高等商船学校一覧 昭和4-5年、昭和6-7年の東京高等商船学校略図による。
1935年(昭和10年) 昭和の初期まで時折授業にも使用され、1935年(昭和10年)以降は学生の同好会「天文部」部員により天体の観測に利用されていた。
  • 無名氏 (2019) 東京商船大学旧天体観測所 (第一観測台?第二観測台) 日本の教育文化遺産を訪ねる [144] [国登録有形文化財 (建造物)] 教育旅行 2019年12月号:2-3
1941年(昭和16年)

金属類回収令が公布された。第一観測台の2階漆喰塗り部分の外側に鉄柵があった。現在は失われている。回収令に伴い供出されたと推定される。

※東京高等商船学校機関科第115期卒業記念アルバム(昭和19(1944)年)に記載された観測台写真では鉄柵がなくなっている。

  • 卒業四十周年記念号:東京高等商船学校航海科125期、機関科117期 東京高等商船学校航海科125期クラス会、機関科117期クラス会, 1985
1945年(昭和20年)
3月10日
東京下町大空襲。越中島には航機本科生約250名と専科生約500名が残っていた。校舎に落ちた焼夷弾は約500発。艇庫、水上機の格納庫、試験用の机等を収納している倉庫等が燃えた。本館、図書館、明治丸、天文台等は焼失を免れた。
1945年(昭和20年)
4月1日
新たに改正された高等商船学校官制が施行になった。官制の改正に従い東京?神戸両高等商船学校は清水高等商船学校と統合され、校名を「高等商船学校」と称することになった。
  • 東京商船大学百年史編集委員会 (1976) 東京商船大学百年史:341
1945年(昭和20年)
9月22日
米軍は旧東京高等商船学校施設(観測台を含む)を接収した。
  • 東京商船大学百年史編集委員会 (1976) 東京商船大学百年史:426
1952年(昭和27年)
11月21日
米軍は旧東京高等商船学校施設(観測台を含む)の接収を解除した。引き続き保安庁(現在の防衛省)が使用した。
  • 東京商船大学百年史編集委員会 (1976) 東京商船大学百年史:426
1956年(昭和31年)
8月20日
昭和31年4月防衛庁(現在の防衛省)が移転し、施設等を修復して、東京商船大学に返還された。第一観測台内部の4インチ赤道儀の鏡筒部(天体望遠鏡)は消失、赤道儀も完品ではない。第二観測台内部の子午儀は消失していた。
  • 東京商船大学百年史編集委員会 (1976) 東京商船大学百年史:426
1997年(平成9年)
12月12日
登録有形文化財に登録
  • 東京商船大学旧天体観測所(第一?第二観測台) 国指定有形文化財等データベースによる。
1998年(平成10年)
1月8日
登録有形文化財の登録告示
  • 東京商船大学旧天体観測所(第一?第二観測台) 国指定有形文化財等データベースによる。
2021年(令和3年)
3月18日
日本天文学会は「商船学校天体観測所」(第一?第二観測台)を日本天文遺産として認定した。
  • 日本天文学会の日本天文遺産認定証(2021年3月18日)

越中島砲台跡

越中島砲台は近年の研究により、元治2(1865)年2月までには幕府調練場内に完成していたことが分っています。砲台が築かれた範囲は明治初期から30年代にかけて発行された地図から、東京海洋大学越中島キャンパスの職員会館周辺からポンド(繋船場)あたりと推定されています。

砲台の規模については東京都立中央図書館所蔵の「越中島砲臺絵図」をご覧ください。縁辺部の注記には「石垣」とあることから石材が用いられていたことがわかります。

砲台の廃絶年は不明です。明治30年代後半から40年代にかけての地図を見ると推定地点には2つのポンド(係留池)が築かれています。1つは水産講習所のポンドで明治35(1902)年までには完成されていました。現在まで存続しています。もう1つは明治丸を係留するためのポンドです。ポンドの浚渫は明治34(1901)年に完成しています。こちらのポンドは徐々に埋め立てられ、昭和38(1963)年に完全に埋め立てられました。ポンドの範囲は、東は「職員会館」の辺り、西は「百周年記念資料館」の西辺り、北は「先端科学技術研究センター」の南辺りと推定されます。

平成22(2010)年、江東区が「越中島砲台跡」と推定される場所を調査したところ、学内から、137個の切石が見つかりました。肉眼で観察したかぎりでは西相模から伊豆半島にかけて産出される安山岩と推定されます。刻印がある切石もあります。この切石についての来歴は伝わっていませんがポンドの浚渫時に切石が引き揚げられたのかもしれません。これからの調査?研究が待たれます。

参考文献
野本賢二 (2013) 東京海洋大学越中島キャンパス所在の切石について
下町文化 263号:6-7